小学1年生の発達障害。主治医意見書

相談される側になったようです。

「うちの子供は何でも出来るから

普通学校に入れたら

この子は、ここに来るべきで無かったと、

学校から言われたと。」

相談されました。

学校は、わかっていない。と母親。

聞いただけではわからないけど。

もし、学校がそう言うなら

他の児童に影響及ぼして、

ここに来るな。あっち行け。と

イジメの標的になるかもしれない。

イジメをのりこえられなかったら

精神を病むよ。

今のうちに

避難所替わりの

特別支援学級に行くようにしてはどうか。

しかし、特別支援学級にも

行くのを躊躇している様子。

まずは、お試しで行ってきたら。

息子の小学生時代の話をしました。

国語と算数は支援学級。

他の教科は普通学級で、

給食も普通学級で取る。

それは、幸せな時間だったと思います。

学校帰りは、まるで、アイドル見送りのように、

みんなの手をタッチして行きました。

支援員の先生に甘える事もあったそうです。

私は言いました。

もし、親の意に沿わないようだったら。

意にそう場所を選択し直すか、

意にそう場所を作るように

戦って勝ち取って行きなさい。

どうやって勝ち取るか、

親が言っても学校の先生は聞かないから、

主治医意見書だったら

効果があるから、

書いてもらうといいよ。

そんな話をしました。

自閉症息子を記録に

なんで、息子を記録するか

息子の診断が出なかった頃、

ネットで息子に似た育児記録を探し

その子が大人になるまで読み続けました。

情報がほぼない時代に

そこから情報を得ました。

私の育児記録は、きっと誰かの役に立つでしょう。

もしかしたら、私が亡くなった後に、

息子の世話をする人が読むかもしれません。

何が好きで、どんなサポートしたら良い

育児記録を読んだら判るはず。

という思いで書いています。もうすぐ、私の元から離れて行くから

次に繋ぐタスキを作っている感じです。

自閉の不思議な能力

家の電動ピアノが、自動演奏出来ることは、息子が幼児期に知りました。

突然に鳴り出し、ビックリでした。

どうやったのと、聞いても教えて貰えず。

息子は話が出来ず。

家族は、その後も、自動演奏を使うことは無いです。

ピアノは、私が単身赴任していた時に中古を買ったもので。

中古だから、説明書も無くでした。

それから、ピアノを時々弾いてくれましたが

私が近づくとやめてしまうので

ほっておくようにしました。

レインマンみたいだなぁと

思います。

発達障害 Ld回想

ものの見え方が違う。息子の場合は自分からそれを言えないから、推測しなければならない。

時計のメモリは1つづつ数えるのは難儀しているが、がんばってやっている。

だから、1つメモリを数え間違っても

「すごいね~」

と丸にしている。

短針と長針が近くにあると、混乱するから、(2重に見えてるらしい)

間違っても、仕方が無い。

ある程度、理解しているから、

将来はデジタル時計を持ち歩かせよ

と、小学生時代は思っていましたが

18才の今は、時計を正確に読めるし、

電車に間に合うように、逆算して家を何時に出ればいいか判るようになりました

フアウル 自閉症小学校時代の回想

そんな言葉があるとは知っていたけど、
息子がやるとは思いませんでした。

今日は野球をしたそうです。

交流担任「たかくん、すべて三振でした」

のぞみ担任「たかくん、すべてフアウルでした」

当たったのね。

私にとっては、バットに当たれば、すべてがヒットです。

よくやったよ。息子よ。

それにしても、同じ現象なのに、評価が違う事。

自閉症小学1年生

小学校時代の回想です。

「帰り道がわからない」
と涙ぐむ小学1年生が一人。

携帯を持っていたのが私だけだったため、自宅に連絡。でも不在。
先生は、もう一人の先生に後を頼んで、そのこを連れて学校へ戻っていきました。

とそのうち
「う~ん。ここはどこ?」
という子がまた一人。

「朝来た路を帰るんだよ」

「う~ん、違うみたい」

という訳で、最後の先生もまた消え。

私がまるで先生のように

「はい、まっすぐ帰る人?」
「は~い」
「では、おばちゃんは左に行くから気をつけて帰りなさい」
「は~い。さようなら~」

という具合に、帰って着ました。小学1年生ってこんなもん?

息子の障害が目立ちませんでした。

公文と自閉症

公文やってる自閉症が多いと、病院で聞いて

即、やりました。

しかし、あの大勢のガヤガヤの中で、公文はできそうになく

公文に聞いたら

個別にしてくださるとのことで

30分個別にやりました。

膝に抱いていないと逃走するので、抱いて、公文のおもちゃで遊びました。

逃走した時は、その様子を写真に撮って

息子に見せて、これはだめよと教えました。

4歳でスタートし、9歳でヤメました。

すぐいなくなる息子でしたが

机に座る習慣はできたように思います。

その頃、息子はよくなると信じていました。

「このこの目標は、就労ですよね」と公文の先生に言われてショックでした。

こんな子も、いつかは、良くなって大学も行ってそのあとは、と

思っていました。

直ると思っているのは私だけで、公文の先生は思っていないんだと

今となっては、公文の先生も正しかった。

とても良かったのに、やめた理由は

体を動かすのが好きな息子に、もっと体を使う遊びをさせたかったから

そして9歳から週4回のクライミングが始まりました。

自閉症色の理解

色が、なかなか覚えられませんでした。

専門家が昔、解説してくれました。

信号の緑は、本当に緑なのか、青ともいうし、よく見ると黒も入ってるんじゃないか

そう云う、あやふやな事象には

自閉症は弱い

色は、黄色はわからない事に、テストではなっていましたが、パステルカラーの黄色は、黄色と分かったし

青は、深い色だったら、青はわかりました。

ちなみに4歳で、黄色や青がわからないと、重度知的障害と言われるようです。

成長するにつれてだんだん、汎化が行われたのか、

小学校の頃には、信号の色も、あか、青、黄と云うようになりました。

自閉症息子に日記を教える

回顧録です。地域の小学校に通っていました。

話せない息子には、日記を自分で書く用に教えていました。

いつも同じ

今日の天気や、行った所しか書かなかった息子が

ある日

違う事書きました。

音楽の時間、泣いた。と。

何も話してくれないので学校の先生に聞いたら

音楽の時間

リコーダーを忘れた同級生が、息子のリコーダーを無理やり奪って

自分は、忘れ物無しで済ませたと。

叱っておきましたと先生。

喋れないから、チクられないと思ったんでしょうね。

日記って、大事です。

当時、おかえり、ただいまも言えない息子でしたが、

それでバカにされた事もありました。

言われの無い濡れ衣もありました。

能力は、見た目以上に高い事を教えてくれました。